The Green Cocoons and Wild Silkworms
October 7, 2022

緑色の繭、天蚕の歴史をたどる
日本特有の気候がもたらした自然の美による伝統文化をもとめて向かったのは長野県、安曇野市。新緑のように生命感を感じさせる美しい緑色のシルクを作り出す天蚕の背景を学びに、天蚕センターを訪れました。

蚕が吐き出す繭を丁寧にほどいて出来上がるシルクは一般的に白または生成りとして認識されていますが、安曇野市に生息する天蚕からは、緑色に輝く美しい糸が作り出されます。天蚕はクヌギやナラの植物を食し、家蚕(品種改良された蚕)に比べて繭長が長径1.3cm以上、繭重が4g以上の大きさを誇る日本古来の原種であり、別名を「やまこ」や「やままい」と呼ばれています。
天然の在来種として改良されることなく現代まで守られてきた天蚕の発祥は安曇野市穂高有明地区。1781年頃から野生の卵を採取して飼育が始められたと伝えられています。雨が少なく、比較的乾燥した痩せた土地であった北アルプス山麓に広がるクヌギ畑は絶好の野蚕場として全国でも有数の生産地に発展しました。江戸時代(1848年〜1853年ごろ)、天蚕の繭からの生糸採取がはじまり、足踏み式の機械の発展によって大量に生産されるようになりました。1897年ごろの穂高地区では1年間で800万粒の量を生産するほどに栄えていたとか。しかし、病気の流行や焼岳噴火、戦争などによって天蚕飼育は途絶えてしまいます。その後、1973年に当時の穂高町で再び天蚕飼育を復活させようと、地域の農家とともに天蚕センターを中心にその文化復興を担ってきました。

シルクはその昔、世界の文化や貿易の支柱となるほどに世界中を魅了していた存在。白い繭から作られるシルク(家蚕)はもともと中国を発祥としています。江戸時代末期、開国当時に外国文化を急速に吸収していた日本でも高値で売買されていたため、幕末国家が傾きかけるほどだったとか。そこで、シルク貿易を盛んにすることで国を豊かにすべく幕府は養蚕勧奨を発令。日本全国で家蚕が行われるようになり、より長くて強い糸を吐く扱いやすい蚕を育てようと様々な品種改良がされて行きました。当時設立された日本最大規模の機械による製糸場が、2014年に世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場です。
天然の品質をそのまま保持している天蚕の魅力は希少性と糸の光沢です。その輝きに由来し“繊維のダイヤモンド”という異名を持つ天蚕糸は、ひとつの繭から700メートルしか採取できません。家蚕から1500mの生糸が取れるのに比べると半分以下。7つの繭から1本の糸へと手作業で紡いだら、着物にするために機織り機にかけます。天蚕糸には家蚕糸と違って伸縮性があるため撚れない反物を作り出すためには非常に高い技術を要します。現在、天蚕の織りを受け継ぐ作家さんはたった数名のみ。幾多の障壁をのりこえて出来上がった天蚕の着物は希少性の高い高価な逸品です。

長野県全般に伝わる伝統工芸、“信州紬”にも天蚕が使用されています。草木染めによって独自の風合いを持つ天蚕の信州紬は軽くてとても丈夫なのが特徴。江戸時代初期の天蚕繁栄時代には、京都へ多くの紬が送られていました。紬は、繭から糸を採取する前に表面の綿状の繊維をほぐし、そこから手紡ぎで製糸された後、草木染めが施され手機(てばた)で反物になっていきます。その歴史は日本書紀に明記され現代にも正倉院に保存される最上級の絹織物「ふとぎぬ」に遡るといわれています。天蚕の信州紬は非常に軽く、強いため、親子3代に受け継がれているのだとか。
現在も天蚕センターをはじめ近隣の農家で行われている天蚕。昔ながらの手法で採取された卵は春を待って豊かな自然を望む飼育林に移され、新芽とともに成長していきます。4回の脱皮を経て大きく育った天蚕の繭は収穫され、美しい糸へと変えられていきます。

昔から変わらない文化風習を紡いでいくことは、日本人である私達自身のルーツに立ち返ることに通じます。自然の豊かさに対する畏敬の念、命をいただくことへの感謝、高い技術力を継続させるアーティスト達への尊敬。それらを忘れずに、歴史やものづくりが語りかけるメッセージに耳を傾けることで、現在から未来へ向けて、技術・自然・文化が調和するこれからのライフスタイルのありかたを見つけ出していきたいと思います。
撮影:船山改
執筆:佐藤由佳
デザイン:堀江真実
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